或る大学生の書き溜め

閲覧してくださる方に少しでも違う価値観に触れていただければと思います。

「就活」を大学生の必須イベントにするな

こんにちは。普通の大学生です。

 

先日まで夏休みで忙しい日々を過ごしておりました。

 

「大学3回の夏休み」

 

文系大学生にとっては就職活動の最初のヤマといっても過言ではない期間でしたね。

 

もちろん私も毎日合説やインターンに足しげく通い日々就活生としての自覚を高めていました。

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...といったようなことはなく、毎日自分のやりたいことをしていたらいつの間にか夏休みは終わっていました。(笑)

 

唯一めぼしいこととして行ったのは「短期留学」ですかね。

 

あ、でもオックスフォードやケンブリッジに行って英語力を向上させつつ専門知識を増やすというような類のものではありません。

 

私が参加したのは、タイの大学で東南アジアの文化や語学に触れるといったようなプログラムです。

 

2週間というもはや留学と呼ぶこともおこがましく思える期間でしたが、その中でタイ語をはじめとして様々な経験を濃密に行うことができました。

 

そして就活に身を投じるべき大学3回生が、多様性の宝庫であるタイに身を投じることで、私の中で「就職活動」に対する意識が変化した気がします。

 

端的に言うと、就活を「大学生活の必須イベント」ではなく、「選択肢の1つ」と考えるようになった、という感じです。

 

あえてこの時期に「就職活動」から距離を取ることで、「就職活動」はもはや「一般に大学生がよりよい企業の内定を得るためにするもの」といった意味の固有名詞ではないか、と考えるようになったのです。

 

そして、「就職活動」を固有名詞足らしめている制度「新卒一括採用」。

 

 

「新卒一括採用」という日本の就活制度がもたらした、就職活動を「しないといけない」風潮。

 

「〇月に就活解禁!デキる学生はもう始めてる」

「〇〇大学人気の企業はココ!」

「就活研究~〇〇はインターンが命~」

 

このような記事に右往左往させられていた自分を客観視する機会になりました。

 

固有名詞的「就職活動」は、必須ではない。

 

要は、「社会に価値を生み出し、自分が生きていく」ための選択肢の1つである。

 

就職活動について根本的な部分で苦しんでいる人は数歩下がって考えてみるといいと思います。

 

...とまあまだほとんど何も経験していない私が言っても説得力はないですが。(笑)

 

とりあえずこれからは、自分の中にある興味や向上心といった「内側の推進力」をもちながら、現行の就活制度を自分がこれから選ぶ道の「選択肢」の1つとして考えていけたらと思います。

 

おしまい。

 

文字ばっかりでしんどいので、このような価値観変化に寄与したバンコク・カオサンロードの写真でも上げときます。(笑)

 

ほんとにバンコクは誰にでもおすすめできる都市です。3万円ほどで航空券もとれるので是非行ってみてほしいです。

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就活のインセンティブが「死にたくない」以外ない件

選考、面接、GD、インターン… そんな言葉が私の周りに現れ始めた。

 

そう、「就活」が始まったのだ。

 

貴重な大学生活の時間を選考に費やし、受かった企業になんとなくインターンに行って、少しでも本選考で有利になるように行動する。

 

それが現状の就活だ。

 

インターン=職業体験などではなく、もはや本選考の一部であるのだ。

 

俺はこのまま漠然と就活をしててもいいのだろうか?

 

下手すれば向こう40年の人生を決めるような選択を、その場その場の流転的な思考で何となく決めてしまってもいいのだろうか?

 

就活について考えるにつけ疑問が絶えることはない。しかし、盲目的に就活制度を嘆くわけではなく、現状を鑑みるに現行の就活制度が至極真っ当なものであることも確かなのだ。

 

インターンに来る、ということは曲がりなりにもその業界、企業に興味を持っているということであり、その中で優秀な学生を企業としては囲い込みたい。当然である。

 

これを考えると、私の就活に対する根本的な悩みは、就活制度に対してではなく、自らの「働きたくない…」という気持ちであるということが分かった。

 

冷静に考えてみてほしい。1年の半分以上が休み・好きなだけ勉強できる・いつでも海外旅行できる・サボってもだれにも迷惑がかからない・大体の事は大目に見られる…etc

 

就職するとこれらすべてを失う(と思ってる)。え、無理。しんどい。(女子大生風)

 

これらを失ってでも得られる「やりがい」等のインセンティブは、はたして「労働」にあるのだろうか。

 

今現在、私の就活のインセンティブは「食いっぱぐれて死にたくない」のみだ。

 

これから就活を続けるにあたってインセンティブが増えることを願ってやまない。

 

おしまい。

 

サッカーの「ダービー」について考える。

こんにちは おっかむです。

 

スポーツって、いいですよね。やるのも観るのも。私自身もスポーツ全般好きですが、特に「やる」スポーツとして野球、「観る」スポーツとしてサッカーがとても好きです。6月にはロシアでW杯も開かれるのでもう楽しみで仕方ないです。後書きで優勝予想載せときます。(笑)

 

さて、今日はその中でサッカーにおける「ダービー」にフォーカスを当てていきたいと思います。

ダービーマッチとは…

サッカーなどで、同じ都市に本拠を置くチームどうしの試合。(大辞林 第三版)

 

さらに、ダービーマッチは「ローカルダービー」と「ナショナルダービー」という2種類に大別されます。

・ローカルダービー

同一の行政区画の範囲内や地理的に近隣関係のある異なった行政区画に本拠地を置いているクラブチーム同士の試合の事を指し、その地名や地域名を頭に付けて「○○ダービー」という。また、ナショナルチーム同士でも用いられる場合がある。また、これらの中にはその国や地域の政治的な背景を色濃く抱えている試合も少なくない。

ナショナルダービー

行政区画に関係なく、実力や人気の面でそのリーグを代表するクラブチーム同士が対戦する試合を指す。ただし、このナショナルダービーという用語は日本のみで使われる和製英語である。

(いずれもwikipedia参照)

 

もともとはイギリスが起源であり、実際には本拠地が同じという条件だけでなく、様々な背景に基づいて各地でダービーマッチは行われています。

例えば、労働者階級vs資本家階級、宗教・民族間、クラブそれ自体の因縁などです。ダービーの背景は国によってもかなり特色があります。例を見ていきましょう。

イングランド…同一の本拠地

 マージ―サイドダービー

リバプールvsエヴァートン

イングランドリバプール市に本拠地を置くクラブの間で行われる。

特徴:リバプール市に住んでいる多くの家庭内に、リバプールエヴァートンの両方のサポーターがいたことから「フレンドリーダービー」と呼ばれている。

 →現在はプレミアリーグの中でも危険なダービーとなっている。

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マージ―サイドダービー

イタリア…同一本拠地・歴史的な都市対立

 ミラノダービー

インテルナツィオナーレ・ミラノvs ACミラン

イタリアのミラノを本拠地とする2チームによる試合。さらに両チーム「スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ(サンシーロ)」というスタジアムをホームグラウンドとしている点でも他のダービーとは異なる。

特徴:もともとミラノには、ACミランのみが存在。その後国際化の流れを汲みインテルナツィオナーレ・ミラノが設立。

 ACミラン→純イタリア人主義、労働者階級

 インテル→国際化主義、中・上流階級

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ミラノダービー 日本人対決も実現

 トリノダービー

ユベントスvsトリノ

イタリアのピエモンテ州トリノに本拠地を置くサッカークラブ同士のダービー

イタリア語名:デルビー・デッラ・モーレ(Derby della Mole)

特徴:トリノ市の有名な観光地であるモーレ・アントネリアーナが名称の由来。階級格差を象徴するダービーとして有名。ユベントス=裕福な中上流階級、トリノ=労働者階級のクラブ と位置付けられる。

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トリノダービー



スペイン…民族問題を背景

カタルーニャダービー

 

南米(ブラジル・アルゼンチン等)…所得格差を背景

スーペルクラシコ(アルゼンチン)

 

旧ソ連…政府系のクラブと民衆系のクラブ

 

このような形で、各国の特徴や社会問題を表象しているような背景を見ることが出来て非常に興味深いですね。(カタルーニャ独立とか)

私が特に興味を持ったのは「労働者階級vs資本家階級」の構図が非常に多い事です。

ヨーロッパでサッカーのクラブチームが作られたのは、主に1900年代前半である場合が多く、その時代は世界的にも「共産主義」が潮流として出現してきた時期です。

資本者側に対して不満を持つ労働者側の意思表示の手段として、実際の革命運動だけでなく、プロレタリア文学や芸術に加えて、「サッカー」というツールも代理闘争の用いていたのではないかと考えることが出来ます。

理由は様々あれど、それらがヨーロッパや南米で、サッカーが「生活の一部」となっていることの裏付けであるのかなぁと思ってみたり。そりゃ強いわけですよ。

日本ももっとサッカーに熱狂できるような「背景」があれば、国民のサッカーに対する意識が高まって、ナショナルチームも強くなるかもしれない、、、と思った次第です。

 

今日はこんな感じで。ではまた。

 

~ロシアワールドカップ予想~

本命:ドイツ、ブラジル

→なんだかんだこの2チーム。どちらかがグループステージでこけると決勝トーナメント1回戦で両者が対戦する可能性もある。個人的には、ドーグラスコスタ(ブラジル・ユベントス)に注目したい。

対抗:フランス、スペイン

→フランスはムバッペ(PSG)やデンベレ(バルセロナ)などの有望な若手が多数。スペインは、グループステージを1位突破すれば比較的楽な決勝トーナメントの山に入ることが出来る。

大穴(期待):クロアチア、ベルギー

→どちらともタレント集団でありながら、今までのW杯ではあまり結果を残せていない。どちらかはベスト4には残って欲しいところ。

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ドーグラスコスタ ユベントスでは快速ウイングのジョーカーとして活躍



「テレビ」というメディアはオワコンなのか?

こんにちは、おっかむです。

最近友人の間で話題になっているのことがあります。それは

「最近マジでテレビ見ないよなwww」

「ここ1か月で見たのサッカーの代表戦くらいだわwww」

こんな感じで、周りにまともにテレビを見ている人がいないという事です。

一般的には若者のテレビ離れなどと括られていますが、それがどのような要因によるものなのか、私の周りの状況から考えていきたいと思います。

①バラエティー番組=茶番

 まず個人的に感じているのがこれです。例えば「〇カっとジャパン」など。(笑)悪者が最終的にやられるという勧善懲悪モノです。あくまで個人的にですが、このような番組を見ていると私は再現VTRにおけるその「悪者」のわざとらしい悪行を「痛々しい」「恥ずかしい」と感じてしまいます。おそらく共感性羞恥と呼ばれるものです。

 その他最近では、「とりあえず外国人に日本sugeeeeさせる」番組が非常に多く感じています。日本が称賛されることは嬉しい事ではありますが、拭え切れない台本感…

 いずれにしても感じるのが、テレビ側の意図する笑いや驚き、感動に視聴者側が合わせなければならない「しんどさ」 これがテレビ離れの要因の一つだと思います。

②若者の興味の多様化

 これに関しては、「若者興味の多様化がテレビ離れを引き起こした」のか、「テレビ離れが若者興味の多様化を引き起こした」のかどちらか判然としませんが、おそらく相乗的なものであると思います。

 音楽を例にとって考えてみましょう。私自身は音楽について全く詳しくないのであくまで印象論なのですが、10年ほど前(コブクロの蕾がレコ大とったくらい)までは、いわゆるヒット曲というものは、日本人全員が共有し日々の話題になるものでした。しかし現在では、「レコード大賞は〇〇が受賞!」「…誰だそれ」といったこともしばしば。

 ただ単に私が世間知らずなだけかも知れませんが、かつてはそのような世間知らずな人々も流行に巻き込む力がテレビにはあったように思えます。

③報道の偏向性

 昨今最も叫ばれているのはこれでしょう。この問題については慎重に検討をしていく必要があると思います。現在私が考える大きな流れとしては、

1.テレビの報道が政府批判を中心としたものになる。

2.若者がそのようなテレビの姿勢に疑問を持つ。

3.若者は次第にテレビではなくネットを情報源とするようになる。

4.国政選挙などで参政権を主に行使しているのは、ネットではなくテレビを情報源とする世代(主に高齢者世代)であるので、そこで世論が形成されてテレビもそこに迎合していく。

 このような悪循環があると思います。

 最近センセーショナルにツイッターで流れている画像があります。↓

CatNA on Twitter: "BS-TBSの番組『今、あなたが信用できないのは?』
安倍総理 20%
ネットSNS 10%
新聞やテレビはランク外・・・・嘘クセー。(笑)… "

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もはや突っ込みどころが多すぎてここでは言及しませんが、このような印象操作(といってもいいでしょう)に嫌気がさして若者はテレビを見なくなるのでしょう。

 しかし、メディアの偏向性は完全に否定されるべきではないと私は考えています。メディア論の1つとして、「番犬としてのメディア」というメディアの役割があります。

 これは簡単にいうと現行政府を監視するという役割であり、その意味ではテレビは「偏向」と言うべきではなく「番犬」であるかもしれません。また、テレビに中立性を求める声もありますが、完全に中立なメディアを作ることは不可能であるので、さまざまな方向を向いたメディアをバランスよく取り入れて、視聴者側が消化し主体性をもって世論を形成する必要があると思います。

 実際にテレビがオワコンだと言われるようになった今でも、視聴率10%を超える番組はたくさんありますし、単純計算で視聴率10%というのは1300万人が見ているということなので、これは他のどのメディアより影響を与えることには変わりありません。ですので、テレビをそのネガティブな部分だけを見て頭ごなしに否定するのではなく、視聴者がテレビをメディアの中の1つの「選択肢」として考えることがまずは肝要ではないかと私は考えます。

上手くまとまっていないかもしれませんが今日はこのような感じで。

ではでは。

 

朝課外について思う事

こんにちは。おっかむです。

最近福岡県で、県立高校の「朝課外」の是非についてが問題に上がっていました。

※参照

www.nishinippon.co.jp

今日は今現在問題になっている「朝課外」について、高校3年間朝課外を体験した者として思う事を述べていきたいと思います。

朝課外の特徴については軽くまとめておきます。

朝課外

①九州の公立高校を中心に行われている

②時間帯は朝のHR前の7:30-8:15(高校によって多少のずれアリ)

③生徒の任意参加・内容は問題演習

 

今や大学の1限にも間に合わない腐れ大学生となった私ですが、朝課外にはきちんと参加していました。なぜなら3回遅刻すると職員室呼び出しがあるからです。

 

…? おかしいぞ、朝課外は任意参加が前提ではないのか?

このように実情としては、朝課外は強制的に行われていたのです。

 

また、任意参加を建前とする以上、課外で取り扱う内容は「問題演習」中心という風にされていましたが、実際には学校の正規の時間割で終わらなかった授業内容を行う、いうなれば「授業進度の調整」という意味合いが強いのです。

 

つまり少々口を悪くして言うと、「授業進度が遅い先生」が「その遅れを取り戻す」ために、朝7:30から学生を集めて「強制的」に授業を行う、これが朝課外の実情です。

 

私が通っていた高校はいわゆる「田舎の自称進学校」であるため、塾や予備校などが存在しないために、その肩代わりを課外で行っているという風に学校側は説明していますが、その場合でも「強制」であることの理由としては不十分であると思います。(塾や予備校に行くかどうかは学生次第ですよね。)

 

これに加えて、学校が推進している1日3時間の勉強・部活動を組み合わせると、1日の睡眠時間は必然的に6時間以下になり、立派な「ブラック企業ソルジャー予備軍」が誕生します。

 

さらに受験期には、6時間目の授業の後「夕課外」なるものがあり、合計で1日8コマの授業が強制的に課されることになります。

 

本当にこれが学生の学力向上につながるのでしょうか。教師側からは、「朝課外が任意参加になってしまうと来ない学生との学力差が生まれるのでは」という懸念がありますが、そもそもそういった「来ない」学生に朝課外の参加を強制させて学力が伸びるとは私は思えません。慢性的な睡眠不足の状態で強制的に7:30から授業を受けさせられ、授業中不可避的なうたた寝をすると精神論でバッサリ切られる…。

 

朝課外の是非に賛否両論ある、というより個人的に朝課外は「百害あって一利なし」こう考えています。

 

この流れのまま、福岡県だけでなく、一刻も早く他の地域でも朝課外が議論になり、廃止の方向に進むことを望んでいます。

 

ではでは

 

京都大学「タテカン」問題について思う事

皆様はじめましてこんにちは、おっかむです。

このアカウントでブログを投稿するのは初めてなので軽く自己紹介とこのブログの趣旨を書いておきます。私は京都在住の文系量産型大学生です。これまでの大学生活、怠惰で自堕落な生活であったため、少しでもそれを改善しようとブログをはじめました。人に自分の書いた文章を見られるというような外的な刺激が今の自分には必要かと思いまして... 量産型の大学生ではありますが、日々の出来事や考えを自分なりに表現したいと思います。よろしくお願いします。

 

さて、タイトルにもあるように本題に入りたいと思います。

今日書きたいのは、京大の立看板撤去に関する問題です。

皆さんも見られたことがあるかも知れませんが、京大には立看板、通称「タテカン」があります。タテカンには、政治思想を書いたものからサークルの勧誘に至るまで様々なものがあります。タテカンの起源は不明ですが、1960年代の学生闘争を機に盛んになったといわれています。

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京大正門にあるタテカン

そのような「タテカン」が、京都市の景観条例に違反するとして撤去命令を受け、現在撤去を巡って学生側と京大当局が衝突しています。

京大は、学生運動云々などで度々メディアに取り上げられるため、外部の人からすれば

「また時代遅れの革命運動かよ…」

「さすが左翼の巣窟、京大」

のようなコメントも少なからず…

私自身もこれまでの、自称同〇会などが行う学生運動にはうんざりしていました。

しかし、今回は問題の根本が違うのです。

そもそも問題となっているのが、京大敷地外の道路(百万遍や東一条)に設置してある立看板が、

①京都の「景観」を損ない

②不法に道路を占有し、通行人への危険がある

これらの理由から、撤去命令が下されたのです。

これはもちろん、政治思想に関するものだけではくサークルの紹介をする立看板もです。

この理由には様々な疑問符がつきます。

・「景観」とは何か?

・通行人への危険が具体化していないのではないか?

・①、②ともに抽象的な理由で「タテカン」という学生の表現の自由の場を侵害していいのか?

 

法律を齧っているものとして違憲審査的に考えていくと、「景観」保護・通行人の安全確保によって得られる利益と、学生の「表現の自由」との比較衡量ということになるでしょうか。(学部生が習いたての知識で考えました。暖かく見守ってください(笑))

それに加えて、タテカン撤去という強力な手段に関する学生への説明がしっかりとなされていない。

道路に面するタテカン撤去の対案として、大学側は大学内にタテカンを設置する場所を置いている、としていますがその場所は学生が駐輪場で使用している場所であったり、大学内でさえも目立たない場所である印象を受けます。(あくまで主観的ですが)

これは「学内外とわず、自らの表現したいことを表現する」タテカンの力を発揮するのに不十分であり、対案として成り立っていないのではないでしょうか。

以上のように今回のタテカン問題は様々な疑問点があり、普段自称同〇会のライブにうんざりしている私のような学生や、教授からも撤去反対の声が生じているわけです。

「いつも通り左翼系京大生が法や政治体制に立てついていきがっている」

このように考えないでほしい、私は切実にそう思います。

読みぐるしい部分も多々あったかもしれませんがここまで読んでいただいてありがとうございました。もしよければ購読よろしくお願いします。